穴澤流薙刀の歴史
穴澤流は武術の名門新当流から興り、江戸時代には全国諸藩に伝播した薙刀術の最大流派です。その流裔は山形の新庄藩と青森の八戸藩に残り、両系統とともに現在まで伝統を保持しています。
国際水月塾武術協会・横浜稽古会で指導している穴澤流は新庄藩に伝播したもので、十五本の形があります。幕末の新庄藩武芸指南役であった松坂次郎左衛門と堀雄次郎の二人が明治44年、薙刀廃絶の危機に小学校での教授を申し込んで以来、新庄小学校の正課として児童に教授されました。
松坂道場で学んだ大沼みどりは小学校で教えながら後進の指導にも余念なく、国際水月塾武術協会会長小佐野師範の師である五十嵐きぬ師範も大沼から学びました。
五十嵐きぬ師範は明治44年、新庄藩士の家に生まれました。祖父は藩の棒術師範でした。小学校5年のとき、薙刀が正課となり、大沼から初めて穴澤流を学びました。以来、師範学校を卒業するまで稽古を続け、大沼の後継者として小学生に穴澤流を教えました。昭和6年には澄宮殿下の台覧に供しています。晩年は埼玉県に移住し、薙刀の教授は一切せず、もっぱら茶道を教授していました。
小佐野師範は昭和六十年に唯一人、五十嵐門下に薙刀の門人として入門を許され、個人教授により後継者として破格の早さで翌六十一年に相伝を受けました。
不肖吉元は令和元年十一月三日、この貴重な流儀の免許皆伝を許され、第
十五代師範を継承しました。この重責を担うべく、後進の指導に尽力していく所存です。
相伝系譜
流祖 穴澤如緊
二代 梅田杢之丞
三代 小磯粂左衛門
四代 佐久間浅右衛門
五代 瀬川仙理
六代 瀬川勇本
七代 戸沢矢一左衛門
八代 戸沢治左衛門
九代 上村孫太夫
十代 戸沢求
十一代 松坂次郎左衛門
十二代 大沼みどり
十三代 五十嵐きぬ
十四代 小佐野淳
十五代 吉元恵美
新庄藩伝穴澤流薙刀第十一代師範松坂次郎左衛門
松坂次郎左衛門臣盛先師は松坂善之進臣義の子で、幼名を藤吉といいました。身体は小さかったけれども武芸諸般を志し、林崎新夢想流居合・本心鏡智流鍵鎗・大坪流馬術・穴澤流薙刀を極め、幕末から明治にかけて指南しました。写真は旧新庄藩武芸指南役の面々で、薙刀を立構えに備えているのが松坂先師です。
私たちは新庄藩の武術として唯一現在にまで伝承されている穴澤流薙刀を正しく継承することを目的として日々稽古に励んでおります。
五十嵐きぬ先生
五十嵐きぬ先生は小学生のとき、穴澤流薙刀に出合い、その後、小学校の教員に奉職してからはまるで体育の教員のように薙刀ばかりを教える日々が続きました。しかし、その薙刀も戦後は教育課程から姿を消し、五十嵐先生は薙刀から離れてしまいます。晩年、山形から埼玉に移住してからは茶道の教授に専念され、薙刀は人に請われても教えることはありませんでした。国際水月塾武術協会最高師範小佐野先生は一年以上かけて教授を懇願し、ようやくそれを許され、ただ一人、相伝を授けられたそうです。この優雅で豪快な薙刀を稽古できることは本当に幸せなことです。
穴澤流の形について
ほどよいという位のものは、形には存在しません。極めた動きだけが流儀の形となります。このぐらいで良いかと身体を動かしても美しさには程遠く、また感動もありません。優雅に水辺を泳ぐ白鳥も水面下では脚を必死に動かすように、無駄な動きを排除して自然な身体の使いから生じる形をつくりあげるまで稽古しなければなりません。身体はつい楽な方を選択してしまうので、形を繰り返し稽古することで良い形が固定されます。稽古は回数を重ねることが必要なのです。