「位のこと」その一
唐代の禅僧、薬山惟儼禅師と、その弟子李翺との問答に「月は青天にあり、水は瓶にあり」とある。本来ありのままの自然な姿が一番大切なスタンスである。武術においては「位」を高くすることを目標にして稽古に励むのである。しかし、意欲を持って長く稽古をすることはとても難しい。さらに、一心不乱に稽古をしても「位に届く」ことは容易ではない。世阿弥は「位は生来の才能であるけれど、熱心にあきらめず稽古を継続していくことで洗練され、自ずと位ができることもある」と教えている。稽古をしてもうまくならないからやめてしまう人は多いが、稽古を重ね継続すれば、その姿はきっと洗練されてくるだろう。
「位のこと」そのニ
仙台藩伝浅山一伝流柔術の「意之構え」は「位之構え」とも言える。位取り充分に、全身一重身に前足を深く屈し後ろ足を伸ばすこの形こそ、全ての技法の根幹を為しているからだ。初心者にとっては難しくきつい構えであるが、修行を積むに従って、この構えの合理性が会得できるようになっていると言われている。また、浅山一伝流には「浅山一伝斎壁書」なる武道訓が存在する。人としての品格や気品を備えることの大切さや怠慢の戒めについて説いている。「浅山一伝斎壁書」によって日常生活を律し、「意之構え」により稽古を重ねてゆけば、誰でも「位取り充分な構え」となり、何事にも屈しない心と身体をつくりあげることができる。(R3.2.9)
「位のこと」その三
何事も切る縁と思ふ事
何事も切る縁と思ふ事肝要なり、能々吟味すべし。構えには有構、無構などあるが、太刀を構えるという事ではない。位により、敵をいかようにも対処できること言う。この位とは、いかなる時でも武士であれば「人を切る心構え」で刀を帯刀すること。しかしながら、その思い表にださず、人を切らず、戦わずして、勝つ無刀の境地となることである。(宮本武蔵『五輪書』)
そして「待つ心で応じて最後は切ると言う縁也」とも言っている。刀は切ること(縁)が使命であると。私たちは構えを日常で無意識のうちに使っている。無刀の境地により、位ある姿勢を自然のうちに身につけたいものである。
気位
気位とは精神の出来たる即ち、腹のできたる位を言う。自信より生ずる気品であり、威厳ある様を言う。故に、気位は技術を修練することに従って精神も鍛錬し、後に自然に備わる物にして故意に模倣しようとすれば却って敗を生じ見苦しきものとなる。(『大日本薙刀道教範』)。(R3.6.2記す)
門弟の心得
現在では、ネット検索やYouTubeで達人が知り得た技の情報や、簡単にすぐできる手解きなど知り得たいことが瞬時に手に取れる時代となり、全てがわかったような気持ちになりがちです。しかし、『免兵法之記』中の「門弟之心得之事」にもあるように、武芸を稽古する者の心得として、「一、流儀を重んじ、師を崇ひ、高弟を敬、末弟を教導し、師命は申すに及ばず、高弟の指図をも真実に守り、覚所をば致し不る、教に随て昼夜探練し、問い難きといえども、十度百度にて不審なるところは時々相尋ね、少しも内心に疑い無様に心懸け、我致得ざる所ならば、はるかの末弟にも謹んで申談ず而可く候」と記されています。これらのことをよくよく心して、稽古場での立ち振る舞いに注意し、口伝を守り、技の是非など論じてはならないのです。(R3.6.2記す)